うちの子が学校に行けなくなってから、もうすぐ1年半になります。自分の子育ては、間違いだらけ、反省すべき点が数えきれないほどありました。今回は、その経緯を記録しています。
過干渉の子育てが生んだ悲劇
不登校の直接的な原因は、「いじめ」や、学校での理不尽な経験でしたが、それよりも何よりも、うちの子が学校に行けなかった原因は、母親である私の過干渉であったと、今ならハッキリと言えます。
もちろん、不登校には多くの要因があり、それが絡まりあっているので、原因が一つではない、ということもわかりますが、
明らかに私は、過干渉な親でした。
育児書が、子育てのバイブルだった母親
私は実家が遠かったので、ワンオペ育児でした。自分の人生を悲観していた当時の私は、子ども達には、絶対に幸せになってほしいと、心から願っていたのです。
お勉強、普段の生活、態度、習い事…
育児書を何十冊、いや、何百冊?も読み、完璧な形で育児をしようと思っていました。学校も、名門学校に入れば、我が子が幸せになると信じていたんです。
与えられるものはすべて与えたつもりになっていました。
・手作りのおやつ、自然食(幼児期は市販のお菓子はなるべく食べさせない)
・毎晩の絵本の読み聞かせ(0歳~小学校卒業までずっと)
・ハイレベルなドリル(小学校1年生から)
・通塾(中学受験用)
育児書に書いてあるとおり、子育てしました。
「頭の良くなる子」「将来成功する子」、「稼げる子」「心が強い子」、「愛される子」…こんな言葉に踊らされ、貪るように育児書を読み、実践してきました。完璧だったはずです。
中学受験失敗、そして、いじめ・・・
学童期には、気が付くと、私は酷い教育ママになっていました。
中学受験に合格するために、必死に、漫画「二月の勝者」の母親のように狂気に満ちた顔をしていたに違いありません。
「ここをガマンすれば、きっとこの子は幸せになれるんだ!」と、心を鬼にして、子どものために、プリント作りや、ファイリング、データ作成をしました。
お友達との関わりが、ほとんどない小学生
うちの子は、お友達と遊ぶ時間なんて、ありませんでした。
中学受験のために、朝は、「朝勉」と称する勉強。帰宅したらすぐに宿題や習い事。そして、夜も毎日2時間~3時間ほど勉強していたのです。
テレビもあまり見ません。録画された教育的なものや、時事問題に関する番組だけを、見せていました。
時事問題について、テレビ番組を見ながら家族で話し合うのです。「親子の会話は、これでバッチリ」だと、私は思い込んでいました。
全ては母親にコントロールされながら、うちの子は自主性を育てる機会を得ることなく、生きて来たのです。お友達関係にも、かなり悪い影響が出ていたようでした。
・話題についていけない
・勉強ができないお友達を見下す
・同級生すべてがライバルのような目で見てしまう
一番大切な人間関係を学べなかった
いつしか我が子は孤立してしまい、いじめに遭ってしまったのです。
中学受験も不合格。
中学に入ってからも、再びいじめに遭いました。
そして、ある日突然、限界に達した我が子は、泣き出して、「学校に行きたくない」と言いました。
「学校に行きたくない」という言葉を発した時にはもう、子どもの精神はボロボロで、限界に達していたのです、
声を出して泣くことの無い子が、幼少期以来、ワンワン泣いた。苦しそうな顔を見せた。
その時の情景は今でもはっきりと覚えています。
不登校ライフがスタート
不登校においては、自分は理解のある方でした。
現在の日本の教育は明らかにおかしいと、時代にふさわしくない、と思っていたので、我が子が「学校に行きたくない」と言い出してからは、無理に行かせる事はしませんでした。
しかし、「勉強だけは絶対に遅れてはいけない」と思っていたので、「勉強だけはしなさい!」と、苦しい最中の我が子に対して、かなり強く言っていました。
勉強さえできれば、偏差値さえ高ければ、私立の学校ならどこでも受け入れてもらえると思っていたからです。(私立に行かせるお金は我が家にはありませんが、補助金や支援があると想定し、行けると思っていました)
心が壊れた我が子に直面して、価値観が変わった
私は、勉強する姿を見て安心し、勉強しない我が子を見ると、イライラするようになりました。
進研ゼミに、相談の電話しても、相談員は口をそろえて「勉強だけは続けてください」と必ず言います。親として、義務教育である今、学校へ行けないのならば、教育の機会を与えねばならぬ、そう思い込んでいました。
子供部屋で血のついたティッシュを見つけても、鼻血が出たのだろうと、思っていたのですが、実際は…違っていました。
そう、もうその頃には、我が子は心が壊れていました。
自傷行為を行っていたのです。
我が子の手首の傷を発見して、唖然としました。いくつもの傷があったのです。一瞬、気が遠くなりましたが、次の瞬間、我が子を抱きしめて泣きました。わあわあと泣きました。
そこでようやく気が付いたのです。自分はとんでもないことをしていたのだ。
我が子をこんなにも苦しめていたのだと、気が付いたのです。愛情たっぷりに育てて来たと思い込んでいた私の育児は、間違いだらけで、悲惨な結末となったのです。
出口が見えない。暗く長いトンネル。
我が子が不登校になってからは、色々なところに相談に行きました。
スクールカウンセラー、児童精神科、教育委員会、民間の無料相談…数えきれないほどの場所に相談しました。
ジタバタしても、我が子の心の傷は、そんなに早く治るものではありません。
私は隠れて一日中泣いてしまう日々。我が子は部屋に閉じこもる日々でした。
児童精神科を受診して、子どもとの関わり方を学んだ
子どもが「行きたい」と言ってくれたので、ようやく児童精神科を受診しました。
そこでは、心理士の先生からのアドバイスを、忠実に守りました。
「今はとにかく休ませてください。そして、静かに、穏やかに過ごしてください」と言われました。
まずは、我が子の心の傷を癒すことが先決。
壊れてしまった我が子の心。母親のために、やりたくない勉強や習い事を何年も続けて来た。成績だって、上位キープを強いられた。その結果いじめに遭うことになるなんて、どれだけ辛かったことでしょうか。
回復には、辛い思いをした年月と同じくらい時間がかかる。
不登校の親の会にも参加しました。
そこで出会った先輩のお母さま方は、本当に優しくて、心に響く言葉をくださいました。
不登校の先輩ママさんには「小さい頃から辛かったなら、その年月と同じくらいかかると思った方がいい。口うるさくしたのが10年間なら、10年かかると思う」
と、言われました。不登校を深く知るからこその、重いお言葉でした。
私は覚悟しました。20歳になるか30歳になるかわからないが、我が子の心の傷が癒えるのは、とても時間のかかることなのだと。
そのころには、うちの子はまったく勉強をしていなかったのですが、勉強なんかよりずっと大切なものがあるのだと、その頃の私は、理解することができていました。
苦しい生活の中で、小さな幸せを見つけた
子どもが不登校になってから1年半が経とうとしています。
一時期は、適応指導教室にお世話になることもありましたが、現在は、また無理をしすぎてしまい、家にこもる日々に逆戻りしています。
世間から見ると、不幸にみえるかもしれません。でも、今、私は、心からうちの子が不登校になってくれて、私の過ちを気づかせてくれて、本当に感謝しているのです。
現在は、苦しい中でも、小さな幸せを見つけながら、生きています。母親として私は、我が子との関係を再構築できるよう、努めています。
最初は心を閉ざしていた子ですが、徐々に心を開いてくれて、今では家族みんなと笑顔でご飯を食べられるようになりました。
自分の気持ちを教えてくれてありがとう
家族が心から笑える日々が送れるようになったのは、我が子のおかげです。
こうやって小さな幸せを重ねて、いつしか心が回復して立ち上がってくれる日が来るのを、静かに待ちたいです。
悔い改めたつもりでも、まだまだ未熟な私です。失敗ばかりの母親です。だからこそ、こうやって文章にして心を整理することは、大切だなあ、って思います。これからも、我が子との日々を、少しずつ綴っていきたいと思います。
※良かったら自己紹介もご覧ください
⇒ 自己紹介